木の神様を祀る伊太祁曽神社(和歌山市鎮座)のブログ。
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新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
年頭の挨拶としては「明けましておめでとうございます」が多いのですが、これは本来は1月1日に限っての挨拶だとか。2日以降は「新年おめでとうございます」が正しいそうです。
平成26年も3日目になりました。午前8時には元始祭を御奉仕いたしました。
3日目となりますと、参拝者の出足も遅くなり、8時頃にはまだあまり姿を見かけません。
私のお正月の朝の仕事はお祭りの準備は勿論ですが、写真のように火を熾すのもその1つ。
お正月の伊太祁曽神社名物の焚火です。
寒い中、参拝者の皆様に少しでも暖をとっていただこうと、昔から行われています。
この場所は結構参拝者とのふれあいの場所にもなっています。
今年は4日が土曜日、5日が日曜日です。まだ初詣に行かれていない方、また既に初詣は済ませたけど伊太祁曽神社はまだお参りしていないという方、是非お参りください。
ちなみに焚火は7日までは焚いております。
今年も裸詣りを行います。
「裸詣り」は1月15日の成人の日に行われていた紀の川筋に住む人々の成人儀礼と言われており、同日の夜明けに下帯ひとつで伊太祁曽神社に参拝するという行事でした。腰に注連縄を巻いて走り、神社に到着するとその注連縄を杉の木に巻きつけて無病息災を祈願したと伝えられます。
この習慣は戦後途絶えてしまいましたが、昭和50年代にジョギングブームの中復活し、一時は200名を越す人が参加していましたが次第に廃れ、平成に入ってからは地元の古老がただ一人その習慣を守って1月15日の夜明け前に参拝していました。また地元の少年野球団の小学生が15日に近い練習日に、グラウンドから神社までを上半身裸で往復して、伝統行事の面影を伝えてきました。
この歴史ある「裸詣り」を広く知ってもらおうと、山東まちづくり会が一昨年から広く参加者を募集して「裸詣り」を行っています。明年も下記の要領で行いますので、興味のある方は是非ご参加ください。
日 時:平成26年1月13日(月・成人の日)
集 合:11:00 四季の郷公園 四季さい館前
募集人員:先着50名(申し込み締め切り平成26年1月4日)
服 装:上半身裸(女性は白Tシャツ等着用)刺青禁止
申込方法:メール・FAX・はがきのいずれかでお申し込みください。(詳しくはこちら)
参 加 費:500円/人(注連縄、木札、保険料等含む)
一昨年の裸詣りの様子はこちら
今日は伊勢の神宮では 神嘗祭(かんなめさい)というお祭りが行われます。
神宮の年間祭祀の中で特に重要なものを三節祭(さんせつさい)と呼びますが、神嘗祭はその三節祭の1つで、天皇陛下が収穫された新穀をお供えし、皇室のご繁栄と国家の安泰、五穀の豊穣、国民の平安をお祈りします。
神宮は125の神社の総称であると書きました。
それぞれの神社の鎮座地は伊勢を中心に各所になりますが、内宮・外宮の宮域にもいくつかの神社が鎮座しています。
詳しくはこちらの過去記事を参照ください。http://itakiso.blog.shinobi.jp/Date/20131003/1/#entry904
さて、内宮・外宮参拝の順路のようなものが紹介されている本やサイトも多数あります。
概ねその通りに参拝されればよいのですが、これらにも時々誤った記述があるように思います。
また、参拝の1つの順番として参考にすればよいのですが、その順番が唯一絶対の様に捉えられかねない記載がされていることもあるようです。
先日、とあるテレビ番組では、「神宮の御正宮では個人的なお願いごとをしてはいけません。個人的なお願い事は内宮の荒祭宮ではしてよいことになっています。」と紹介されていました。
昔から神宮は「私幣禁断」と言われ、個人的な祈願のためにお供えすることはできないとされてきました。ですからテレビ番組で紹介していた前半の部分は誤りではありません。しかし、この「私幣禁断」というのは御正宮に限ってのことという意味ではなく、あくまで ”神宮” ですから荒祭宮では私幣を納めてよいいうことにはならないと思うのです。どこからこういう話がでたのか、ちょっとよくわかりません。
しかし、この話はいろいろな形で広がっているのでしょうか。近年、荒祭宮にも以前では考えられないほどの長い参拝の列ができているのを見かけます・・・。
昨日10月15日は伊太祁曽神社の例祭日でした。
午前10時からの祭典には氏子総代を始め、氏子崇敬者の方が参列しました。
この日は、昔から有田市千田に鎮座する須佐神社の総代2名も参列するしきたりになっています。
江戸時代の伊太祁曽神社年中行事にも伊太祁曽神社の祭に須佐神社から神人がやってくるとの記載があります。
現在は、10月14日の須佐神社例祭に伊太祁曽神社から氏子総代が、翌15日の伊太祁曽神社例祭に須佐神社から氏子総代2名が、それぞれ代参としてお参りすることになっています。
昨日は、祭典開始時刻が近づくと雨が降り出しました。
当社のお祭りで雨が降ることは珍しくありませんが、大抵「清めの雨」とも言える雨で、遅くても祭典直前にはあがってしまうのですが、今回は祭典間際になって降り始めました。
記憶を遡ってみると、祭典時に雨が降るときは毎回何かが大きく改まった時でした。
祭典次第を整えて規模を大きくした最初の年とか・・・。
今年は出雲と伊勢の御遷宮の年でした。そういったことだったのでしょうか・・・。よくわかりませんが・・・。
本来は10時からの例祭に引き続いて神輿渡御となるのですが、現代では週末でないと担ぎ手が集まらないとの理由から渡御祭は例祭後の最初の日曜日に斎行しています。今年は20日です。
その代わりという訳ではありませんが、15日には子供みこしがでます。
氏子地区内に2つ小学校がありますが、両校の6年生が担ぐことになっているようです。
学校としては地域学習の一環として取り組んでくれており、そのため日曜日よりは平日の方が都合がよいとのことで、本来神輿が出る日である10月15日に行っています。
今年は、1校が学校行事と重なるということで、1校のみとなりました。
しかも生憎の雨でしたので、予定の一の鳥居まで行かず、拝殿前を数往復するだけになりましたが、子供たちは元気に神輿を担いでくれました。
子供みこしの後、参列者は奥宮に移動して祭典を行います。
奥宮は本社の北約3kmの位置にあり、ここまで神輿が渡御して祭礼を行うのです。
20日の渡御祭でも勿論祭典を行いますが、本来は15日に行われるべきものですので、氏子総代参列の下、奥宮での祭儀も滞りなく執り行いました。
上の写真は奥宮の社殿ですが、渡御祭では神輿や行列の威儀物がこの前に並びとても賑やかな祭儀となります。
奥宮での祭礼の後、本社に戻り直会を執り行いました。
20日の渡御祭(神幸祭)では、上の写真の 本神輿3基が出ます。
正午の出発、還御は夕方4時過ぎの予定です。
伊勢の神宮が20年に1度の式年遷宮を迎え、今年は空前の伊勢参宮ブームのようです。
年間1,000万人の参拝がすでに確実視され、1,300万人程度と目されているようです。
伊勢参宮は江戸時代に数度ブームとなりました。いわゆる「お陰まいり」です。
当時は徒歩での移動しかありませんから、日本全国から歩いて何日もかけて神宮へ参拝をしました。
当然費用も莫大にかかります。「一生に一度はお伊勢詣りをしたい」というのが庶民の夢だったようです。そのため、村の皆でお金を出し合って籤などで選ばれた代表者が伊勢参宮をしたり、身代りに犬を参宮旅行に出したりということもよくあったようです。
さて近年、伊勢参宮に関するガイドブックが数多く出版されています。
いろいろなことが記されているようですが、中には少々誤った記述がされているものあるようです。
そんな中、比較的よく見かけるものについて記しておきたいと思います。
の10社、外宮所管の別宮は
の4社です。別宮については、いずれ個別に紹介したいと思います。
摂社は延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に記されている神社です。延喜式神名帳とは平安時代に編纂された法令集『延喜式』の巻9・10のことで、ここには全国の神社3000余社が記されています。延喜式神名帳に記されている神社を一般には「式内社」と呼びますが、摂社はいわば神宮所管の神社で式内社であるものと言えると思います。
(ちなみに伊太祁曽神社も式内社です)
末社は延暦儀式帳に記載があるが延喜式に記載のないものを言います。延暦儀式帳とは延喜式編纂よりも前の延暦年間に神宮から朝廷に提出された書面で、神宮の由緒や祭典などについて詳細に記されています。『皇大神宮儀式帳』『止由氣宮儀式帳』を総称して「延暦の儀式帳」という呼び方をします。
所管社は上記以外に神宮が祭祀の執行に直接関係のある神々をお祀りし、末社に準じて祭祀を行う神社を言います。
こういった多数の神社を総称して 神宮 と呼ぶのです。
ですから、これらを巡拝するだけでも、伊勢に何度足を運んでも毎回違う参拝の仕方ができるというのも、神宮のすごいところです。
次回は、神宮のお参りの仕方について記したいと思います。