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木の神様を祀る伊太祁曽神社(和歌山市鎮座)のブログ。

木の国神話の社 禰宜日誌

   
カテゴリー「豆知識」の記事一覧

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大寒

昨日、20日は 「大寒」 でした。

大寒 は二十四節気のひとつで、寒さが最も厳しくなる頃といわれます。

大体1月20日頃になりますが、大寒の日というのは、太陽が黄経300度の点を通過する日を云います。

 

この日に寒稽古を行うところが多くありますが、神社でも 「大寒禊」 というのを行うところもあります。

大寒の日の早朝に、下帯ひとつになって、水に打たれるのです。

私も昔は毎年参加していました。今はそういう機会もないのですが・・・。

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亥と伊太祁曽神社

平成19年は丁亥(ていがい:ひのとい)歳です。

十二支の亥はイノシシとされています。
神社には様々な動物をお使いとしているところがあります。
春日のシカ、熊野のヤタガラス、日吉のサル、天満宮のウシなど・・・。
イノシシがお使いというところもあるようですね。
京都の護王神社や滋賀の馬見岡綿向神社などがそうみたいです。

伊太祁曽神社も少しばかり亥と関連があります。

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参拝の作法

年が変わると多くの方が神社仏閣に初詣にお参りされることと思います。

社頭で見ていますと、お参りの仕方はひとそれぞれに違います。

手を合わせて拝む人
2回手をたたいて頭を下げる人
1礼して目を閉じて念じる人
・・・

「神様を敬い拝む気持ちがあればそれで良い」といえないこともありませんが、きちっとした作法がありますので覚えておかれるほうが良いでしょう。

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大雪

今日は二十四節季の1つ 「大雪」 です。

「おおゆき」と読んでしまった方、間違いです。「たいせつ」と読みます。

二十四節季と言われるとピンとこない方も多いと思いますが、一般に良く知られているものには「立春」「夏至」「大寒」などが挙げられます。

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御神札(おふだ)の祀り方

神棚を祀っているご家庭では、年末には御神札を新く変えられて、新年を迎えられることと思います。

神棚を祀るのは、家庭に神様をお祀りすることで、家内安全・家族の健康を守ってもらうという意味があります。

毎朝、神棚に手を合わせることで、日々の恩恵に感謝する、その表れでもあります。

最近、「家内安全のお守りはないですか?」と参拝者に聞かれることがあります。

「お札をお祀りください」というと、「神棚が無いから・・・」と敬遠されることがありますが、本来「家内安全のお守り」というのがおかしいと思っています。

お札もお守りもいずれも神様の恩頼(みたまのふゆ)を頂いたものです。
お守りは、身に付けて持ち歩くことができるように、お守り袋に入れた「お札」です。
家を守るのに持ち歩く必要はありませんから、「お札」が正しいと思うのですが・・・。

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御由緒

伊太祁曽神社のブログを開設しました。

単に神社での日々の出来事を記してゆくだけでなく、季節毎の行事や人生儀礼などについても、触れてゆきたいと考えています。

本格的な運用は、平成19年春を予定しております。

それまでは、試験的な書き込みなどが続くと思います。ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。

それだけで、最初の書き込みを終えてしまうのもなんですので、伊太祁曽神社の御由緒を記しておきます。

(ホームページと同文章ですが・・・ (^^ゞ

【御祭神】

五十猛命(いたけるのみこと) / 大屋毘古神(おおやびこのかみ)

大屋津姫命(おおやつひめのみこと)

都麻津姫命(つまつひめのみこと)

【社格】

延喜式内社 / 別表神社 / 紀伊国一ノ宮 / 旧官幣中社

【ご神徳】

木の神 (山林業・木材業・材木業など木に携わる業種の繁栄、緑化の祖神)

航海安全・大漁 / 交通安全

厄祓い・厄除け / 病気平癒

【ご鎮座の由来と沿革】

 伊太祁曽神社についての具体的な年号の初見は「続日本紀」の文武天皇大宝2年(西暦702年)です。神代のことはわかりませんが、伊太祁曽神社が現在の社地に静まります以前には、日前神宮・国懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかがすじんぐう=通称:日前宮にちぜんぐう)の社地にお祀りされていたようです。 日前宮のご鎮座が垂仁天皇16年と伝えられていますので、その頃に山東(さんどう=現在の伊太祈曽) に遷座せられたようです。しかしその場所は現在の社殿のある場所ではなく、南東に500mほど離れた「亥の森」と呼ばれる所でした。現在も田んぼの中にこんもりした森が残っており、いかにも神奈備の様相を呈しています。亥の森は旧社地として、小さな祠を祀っており毎年旧暦十月初亥日に「亥の森祭」が執り行われます。「寛永記」には「伊太祁曽明神ハ和銅六年十月初亥ノ日当所に遷リ給フ」と記されており、現在の社地への鎮座は和銅6年(西暦713年)ということになります。
 つまり太古より祀られていた伊太祁曽神社は日前宮の鎮座とともに山東に遷り、大宝2年の官命によって社殿の造営がはじめられ、約10年後の和銅6年に現在の地にご鎮座になられたというのが通説です。
 天皇陛下 幣帛料・幣饌料延喜式神名帳に所載の神社(式内社)で、明神大・月次・新嘗・相嘗に預かると記載されており、平安期には朝廷の崇敬が篤い大社であったことがわかります。紀伊国(木国)の一ノ宮として朝野の崇敬を受け、明治18年には国幣中社に列格し、大正7年には官幣中社に昇格しています。昭和37年、昭和46年、昭和52年、平成9年の天皇陛下御来県の砌には畏くも幣饌料を頂戴致しました。
 昭和9年の台風により社殿が甚だしく損壊しましたが、畏くも御内帑金(ごないどきん)のご下賜により内務省直轄工事で復興に着手し、昭和12年3月に竣工しています。以後、屋根の葺替工事、常磐殿の改修、ときわ山造園、神池改修等の境内整備を経て今日の神社があります。平成14年(西暦2002年)は伊太祁曽神社の初見記事である大宝2年(西暦702年)より数えて1300年にあたり、ご鎮座1300年式年・奉幣祭を執り行い、畏くも天皇陛下より幣帛料を頂戴致しました。

【木の国神話の社】

 日本書紀には素戔鳴尊が髭を抜き、胸毛を、尻毛を眉毛を抜いて、杉、桧、槇、楠といった木を作り、杉と楠は船に、桧は家屋に、槇は棺桶に用いると良いと教えられたと記されています。
 また五十猛命は 父神素戔鳴尊(スサノオノミコト)と共に木種を持って高天原から韓地(カラクニ)に天降りますが、その地には植えずに大八洲国(オオヤシマグニ=日本)に渡り、父神の命を受けて日本中に木を植て廻り、最後に紀伊国に鎮まったとも記されています。
 私達の生活には樹木は必要不可欠なものですが、その木を植えて廻ったのが五十猛命という神様で、紀伊国にお鎮まりであると日本書紀では記しています。そしてこのことから五十猛命は「木の神」と呼ばれるようになったのです。またこの功績により「有功之神(いさおしのかみ)」とも呼ばれると書紀には記されています。五十猛命が単に木の神だけではなく、農林殖産業全ての神として信仰されるのはこのためです。
 和歌山県は明治以前は 「紀伊国」 と呼ばれておりましたが、更に昔は 「木国」でした。木の神様がいらっしゃる国という意味です。奈良時代になり、国の名前は雅字2文字を用いてつけよと勅令が出され、「紀伊国」と改められたということです。このことから「紀伊国祖神(きいのくにのおやがみ)」とも呼ばれ、一の宮としての崇敬もあったのではないでしょうか。
 五十猛命を祀る伊太祁曽神社はまさに 「木の国神話の社」 なのです。

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